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1みつを ★2019/08/12(月) 09:33:29.05ID:98jYGATJ9 https://www.kobe-np.co.jp/news/sougou/201908/sp/0012600849.shtml

1歳で中国人に売られ、その後虐待され孤児に「あの戦争で誰が幸せに」
2019/08/12 06:00

 「あの戦争で誰か幸せになったのか」。戦時中に旧満州(中国東北部)へ渡り、終戦後の混乱で家族が離散した前田麗子さん(75)=兵庫県明石市=は強い口調で訴える。極貧の中で中国人の養女になり、養母から虐待を受けた。2歳年上の兄の消息は今も分からない。残留孤児の認定を受けて38歳で帰国し、言葉や習慣の壁に苦しみながら生活基盤を築いたが、戦後74年を経て思いは募る一方だ。「今もお兄さん、どこにいるか分からないよ。ずっと、こんな思いをさせる戦争が憎いよ」(津田和納)
 前田さんは1944(昭和19)年、神戸市須磨区で生まれた。両親と兄寿一(としかず)さんと共に、生後7カ月で旧満州・ハルビンに渡った。
 終戦後、一家はソ連軍から逃げ、撫順(ぶじゅん)の難民収容所にたどり着いた。食事も布団もなく、夜は氷点下20度まで冷え込んだ。命の危機を感じた父は、子をほしがる中国人夫婦に打診する。
 「男と女、どちらがいいですか?」「女の子がいい」
 父は夫婦から金銭を受け取り、その金で1人帰国したと後で聞かされた。
 前田さんは1歳4カ月で養女となり、「李菊梅」としての人生を歩み出す。だが、養母は次々と子を産み「もういらない。日本に帰れ」と怒鳴った。残飯が与えられ、養父がいない時には鉄の棒で殴られた。前田さんの右肩と額には、今も生々しい傷痕が残る。
 小学校では「小日本(シャオリーベン)」とさげすまれ、養母の親族宅を転々とした。別の家の養女となり、「馬麗」と名を変えたこともあったという。
   ◇   ◇
 13歳で働きに出て、16歳で曲芸団員に。二胡の奏者だった夫馬棟さんと結婚し、2男2女に恵まれた。転機は35歳の時。広島の叔母から手紙が届き、実母が中国・石家荘で生存していると知った。
 すでに再婚し子も4人いた母を呼び寄せて暮らしたが、関係はすぐに破綻した。「何十年と離れていたから、お互いに理解できないことばかりだった」
 父は帰国後に亡くなり、兄は行方不明とも知った。生き別れた兄に会いたい−。中国領事館などに問い合わせたが「中国名が分からず手掛かりはなかった」。
 その後、孤児の帰国事業に取り組んだ長野県の僧侶山本慈昭さんと出会い、38歳の時に一家で日本の地を踏んだ。だが、言葉や習慣の違いに苦しみ、夫の希望で中国へ戻った。
 それでも「死ぬ時は自分の国で」という思いは消えなかった。再び帰国して神戸市長田区の靴製造会社で勤務。夫とは55歳で死別したが、9人の孫と8人のひ孫に恵まれた。
 最近は世の中の動きに神経をとがらせる。自衛隊の海外派遣、安全保障関連法の施行、そして憲法9条改正の動き−。分からない単語は電子辞書で確かめる。
 「日本はまた戦争をしようとしてる。絶対に駄目」。真剣な表情で記者に訴えた。
【中国残留孤児】大日本帝国が建国を宣言した旧満州国には、開拓移民として全国から約27万人が渡ったとされる。終戦直前、ソ連の対日参戦で関東軍が撤退。戦闘や飢餓で多くの命が失われ、肉親と離別した子どもたちは中国人の養父母に育てられた。政府は1981年から孤児らの永住帰国を本格化。厚生労働省によると、2019年6月末までに孤児と認定されたのは2818人で、うち身元判明者は1284人。これまでに帰国した中国残留邦人は6723人に上る。

351名無しさん@1周年2019/08/13(火) 02:49:39.27ID:B5xxglsi0

中国の農村は子供がいない夫婦は将来養ってくれる者がいないからと爪弾きにされる
日本人の子供を引き取ったのは子が無い夫婦の場合はその対策にしか過ぎないし、自分の子供がいる場合は日本人は優秀でよく働くと言う事で半ば奴隷代わりに引き取ってたりもするから全然綺麗事じゃないのだよね

中国人として育てられるとメンタリティが中国人になってしまうので残留孤児は最早日本人とも言えないし

329名無しさん@1周年2019/08/12(月) 17:57:02.02ID:h2KYtlao0

>二胡の奏者だった夫馬棟さんと結婚し、2男2女に恵まれた

馬鹿にされてる割に結婚出来るのも中国の不思議